アロエ製薬ストーリー

アロエの可能性を求めて
生涯をアロエにささげた創業者、間宮敏雄。
アロエ製薬の原点が、ここにあります。

音楽から薬草研究の道へ

アロエ製薬の創業者、間宮敏雄は、明治34年浜松に生まれました。小学校卒業後、楽器メーカーに入社し、音楽の道を志します。その後、ピアノ調律師をしながら間宮ハーモニカバンドを結成するなど、音楽関係で活躍していました。
けれども戦争という社会情勢の変化のなかで、昭和のはじめには、生物の生命を救う物質が植物にないものかということを神経を麻痺させるモルヒネをヒントに考えはじめ、薬草の研究へと歩みを変えていきました。しかし発見できないまま、日中戦争に召集されたのです。

自分のケガは自分で治す

最前線で戦いつづけた間宮敏雄は、やがて足を負傷し、足を切断する危機に見舞われました。医師はおろか薬も手に入りにくい状況の中、目の前にあったロウソクで患部をふさぎ一命をとりとめました。またマラリアにもかかりましたが、このときも自力で治し、生還を遂げたのです。
この経験から、自分のケガや病気は、自分で治さなければ…と痛感した間宮敏雄は、帰国後すぐ、静岡に薬草健康法の研究所をつくり研究に打ち込みました。けれども生物の生命を救う植物には、なかなかめぐりあえませんでした。

薬草 アロエとの出会い

それでも諦めず研究に全力を傾けた間宮敏雄に、ついに探し求めていた薬草に出会える日がやってきました。
それは、伊豆の農家の庭先。老婆がとげのある草の葉を折って、子どもの傷の手当てをしているところに遭遇したのです。老婆にその草の名を尋ねると「医者いらず」だといい、やけど・胃腸にも効くといいます。
これこそ長年探求してきた薬草に違いない。そう感じた間宮敏雄は、持ち帰って調べてみると、この薬草は病気やケガに効き目のある「アロエ」であるとわかりました。
そして、アロエの色素を取り出して実験してみると、からだに働きかける点で、素晴らしい作用があることを発見したのです。昭和13年のことでした。

人々に受け入れられたアロエの薬

さらに研究をつづけ、アロエと出会って3年後にはアロエの粉末を、それから軟膏をつくりました。
当時、粉末はカンに、軟膏はハマグリに詰めただけで販売されましたが、音楽関係でつちかった才能を活かしてアロエの体操を考案したり、また、そのころ盛んであった婦人会活動にも顔を出して実際の使い方を指導するなど、アロエの普及にはげみました。
その実績が功を奏し、先進的であったアロエの薬は人々に受け入れられました。薬のない時代でもあったため、大勢の方が自宅にまで買いに訪れました。これが、現在の『「間宮」アロエ軟膏a』の起こりです。

今に継がれるアロエへの情熱

こうしてアロエの普及に努めるなか、終戦を迎えます。戦争で焼け出されたもののアロエの温室だけが残ったことで、戦後すぐから、さらにアロエの研究を発展させることができました。
そして、昭和27年に「間宮製薬」を創立。昭和36年に「間宮製薬株式会社」を設立し、昭和40年に「アロエ製薬株式会社」と社名を変更しました。
会社設立後も変わることなくアロエへの追求はつづき、昭和48年には『「間宮」アロエ軟膏』、つづいて『アロエ製薬便秘錠』『アロエ製薬健胃錠』が誕生。
また間宮敏雄は、アロエの医薬品開発だけでなく雑誌社と連携してアロエの効用を説くなど、今ではあたり前になっているPRの手法を当時から取り入れるなどして、アロエの普及に関しては常に積極的でした。